昭和40年9月10日 月次祭



昨日、一昨日でしたか、秋永先生、それからあの、福島さん同道で、今日の青年会にお見えになりました。あれは、私共が、念願に致しておりました、ここの、教会設置問題、それの準備願いというのが、本部で受け付けられることになったという、お書付を頂きまして、いつでも、こちらが手続きさえとれば、本番が得られるというところまで、おかげを頂きました。そのことの、お礼に参上したわけでございますが、帰りに、もう、お土産というわけじゃないでしょうけれども、まあ、お茶と私、ご飯頂けない筈なんですけどね、あの、金光様と、三代金光様と、それから奥様のお書き下げです。それがあの、お短冊に書いてあります。それを帰りに、頂いて来て下さいました。あのう、ほんとに、神ながらに、入手のおかげを頂いたわけでございますけれども、それに、金光様のほうの、お短冊には、「信心は、家庭に不和のなきがもとなり」と書いてある。それから、奥様のには、「信心」と書いてある。ほんとに、ここの宝にさしていただく訳でございますけれども、簡単に「信心は、家庭に不和のなきがもとなり」というが、その一つ、元であるところの、ま、家庭に不和のないというような、おかげを頂いておる信者、信者家庭が、どれだけあるだろうか。それが、三代金光様のお書き下げ。「ね」。「信心は、家内に不和のなきがもとなり」と。元である。それから、奥様のは、「信心」と書いてある。信ずる心と書いてある。「んん」、今朝から、北野の中村さんが、お参りになりました。それで、お届けされますことに、先生、どうぞ身体の健康を頂いて、どうぞ、ほんと頑張らせて頂いてから、向こう御用にお使い回し頂きますようにという、お届けがございました。そしたら、これを頂くんですね。「信心」。菊世とこう。あちらは、菊世というんですねえ。この、「よ」が違うんです、これは「よ」が、与えると書いてある。そういう意味でいつも、中村さんは、あれは、何かの修行されましてねえ。あー、もー、大変な、あの当時、いー、とても中村さん、ようもあんな修行が出来なさるといったような、修行をなさって、おかげを頂かれてから、丁度、満願の日が、丁度御本部参拝の日に、当たっていましたそうです。私は、それを知りませんでした。お薬と一緒に、御祈念をさせて頂いておりましたら、あー、只今その、中村菊世の菊世を、カタカナでキクヨと書いてあるのを、喜久世と頂いた、喜ぶ久しい世と頂いた。それが、丁度、私がこの修行をさせて頂きましてから、今日が、満願の日だとこういう。もう、それとこれとを、思い合わせてから、まあ、二人でも、そこに習うものを、ほんとに恐れ入ってしまう、ほんとに、こういうおかげを頂かにゃならんなと言うて、おかげ頂いたことでございますが。けれども、喜の字を一つなくすると、後はくよくよになります。キクヨでしょ、ですから、キの字を、喜ぶを一つとると、あとは、クヨ、中村さんから、喜ぶをいっちょ引いたらもう、くよくよババさんに、なってしまわんならんばいと。それで、いつまでも、それでくよくよせんことが、いつもニコニコしてるかというとやっぱそうじゃない、やっぱり時々はそうなる気持ちを、捨ててしまってるようなこともある訳なんです。そのときは、くよくよババさんに、なってしまうというわけなんですよね。その、くよくよババさんじゃない、喜久世さんが、今日、そんなお届けをされるんです。「ね」。もうその、健全のおかげを頂いて、もう、七十でしょう。ね、これから先ほんと、若い者でも、負けん位にその、働かしていただいて、御用に使って頂いて、それには、どうぞ、身体の健康のおかげをいただかにゃならんから、というような、あー、ことでございましたが、どのような健康のおかげを頂いたところで、そればってん、どこかで女中さんが出来ると言うても、誰も雇いてがない。「ね」。もう、あの年では。それで、私は、このお短冊のことを、お話しするんですね。もう、中村さんあんたが、頑張るということをね、心の健全を願わにゃいけません。「ね」、心が健康にならなきゃいけません。「ね」。それにはね、今朝から頂きますような御理解を、一つ本気で自分のものにさせて頂いて、そして、キクヨである。喜びを、いつまでも久しゅう、自分の周囲の誰彼に、いわば与えていけれる、いわば、お婆さんになりなさい。もう、これが、なにをいうよりは、一番大事なことである。もう、金光様の奥様と、同じ名前をこれから頂いたと思うて、この、喜久世という気持ちを忘れなさんな。喜びを久しゅう、ね、いつまでも、皆に与えられるだけの、喜びを頂くために、心の健全を頂かねばならない。今朝からの、御理解をようく分からせていただかにゃならんと言うて、まあ、本人も大変感激されましてからね。先生、左様でございました。ほんとに、皆さんに、自分の信心の喜びを皆に、聞いてもろうたり、分け与えられるようなその、おかげを頂きたいと言うて、ま、心のほどをまた、改めて高められた面持ちで今日は、帰られました。その、今朝の御理解をというのが、どういう御理解かというとですね。私、今朝、御神前にでらせて頂いたんです。そしたら、あの、皆さん、西日本新聞をお取りになっていられるところは、ま、ご覧になったでしょうが、あのう、どっか、有明海かどっかでしょうか、もう、いっぱいあの、砂浜にですね、ハマグリが皆、沢山ほんなこつ口を開けて死んでしまっているという写真が出ていました。どっかその、上流のほうの工場がですね、なんか悪液を、海に流したんですね。だもんですから、貝類という貝類、そこは、特にハマグリの取れるところだったらしいです。ですから、そのハマグリが皆死んでしまっておる。口を開けてしまって。「ね」。それから、私は、色々考えた。「ね」。椛目で、神愛会という、会員の席に皆さんの名を連ねておられます。ま、本当に私は、今椛目で御用を頂いておられる皆さんはです、ま、ハマグリのような味わいの信心を、頂いておられなければならない方達ばっかりだと思うのです。なぜって言うて、これから、それこそ、会員百年の計といわれる、そういう基礎を作らせて頂く15年間でもありましたし、そういう15年間の間に、いうなら、みっちり、そこんところを稽古させて頂いたお互いなのですから、もう、ほんとに、味は小浜の焼き蛤じゃないけれど、ハマグリにも似たような、味わいの会員に皆が、なっていなければならない。「ね」。角ばっかりのサザエじゃいけません。「ね」。口ばっかりのほら貝じゃいけません。「ね」。いつもかつも、それこそ、アゲマキは、ちんばでというように、ような信心でもいけませんし、あれもこれも、足ろうた、「ね」くちでいうことも、心で思うておることも、思うことも、本当に、神様がご覧になっても、人が見ても、恥ずかしくない、可笑しくないというような、信心に、お互いがならして頂かなければです。そこんところが、欠けておったら、私の信心のあげまきであり、私は、口ばっかりのほら貝であり、私は、角ばっかりのサザエのような会員であると、お互い悟らにゃいけません。ま、サザエのようなのは、どうでんこうでん、中は良かっじゃん。なかは。なかはよかっじゃん。仲良うして、(だかてといやあ)、角が怖い。もう、ほんとにもう、いっちょんいうたら、すぐ、ぷりぷり腹かかっしゃる。芯な、ほんに良かっじゃん。けれども、それではいけませんもんね。神様には通用しても、人間には、通用しませんもんね。人にコリを積ませます。人にコリを積ませたんでは、家庭の和は、頂かれんのです。もう、うちのババさんな、あげなふうな人じゃけんでち、いくらその、孫でん、嫁ごでん、もうその、諦めちゃあおるとばってん、やっぱりその、孫やら、嫁ごでん、子供達でもです、そげな風にばっかりではなか。「ね」。ですから、お互いが、ハマグリを目指さなければならないけれども、「ね」。そういう、信心の味わいというか、椛目でおかげを頂いておるということが、有難いとしみじみ味あわせて頂けれるような、信心をお互い、頂いていかなければならないのだけれど、ちょっとこう、悪液を流されると、こう流されるともう、口を開けてあんぐりとしてしまうような信心ではつまらん。と、いうことであろうと私は、今朝から思うた。「ね」、昨日みせていただいた、いわゆる新聞に出ておる、ま、写真の、皆、口を開けてしまっている。これは勿体無いくらいの、沢山のことなんです。「ね」、それには、私共がです、本当に、その毒薬を変じて、薬に出来るような、信心をいただいておかなければならない。毒にもなれてくるがいい。「ね」。その毒というのは、変じてそれを薬にすることが出来る。返っておかげを頂くことが出来る。そこのところを教祖は、難はみかげと仰っている。難を難で受けただけでは、いけません。「ね」。どういう毒々しいことを、たとえば、言われても、味あわなければいけないようなことであってもです。ほんと目を瞑らして貰い、金光様を二、三遍唱えよったら、ほんとに、神様、ご真意が分からして頂いた、と、そのことをです、そのことを、そういうふうな頂き方を出来れるようになったときです。もう、毒薬は、変じて薬になっている時なんです。そういうようなおかげを、お互いが、目指さして頂いてからの信心。しかもそれが、家族がそういうところに、道の焦点を置いてからのおかげであるということにならなければならない。
昨日、土井の、久富さんのお宅の、9月の9日ですね、お宅祭りがございました。今朝、ご夫婦でお礼に見えられてから、お届けで、二人とも、昨夜、遅うなって休まれて、やがてその、お夢を頂かれたという、そのお夢がです。二人とも、共通するお夢を頂かれておる。皆さんに一つ判断をしてもらいましょう。こういうふうなお夢だったんです。「ね」。久富さんと、私の長女の豊美と、二人連れ立って、その、どっかへ行っておる。大きな学校のようなところを、行っておるわけです。そん、まあ、学校へ到着のおかげを頂いた。ところが、そこには、善導寺の親先生もおられりゃ、私もおる。私もおるんだけれども、実をいうたら、私が、親先生の自動車に乗って行ったらしい、「ね」。そしたら、勇さん、勇さん、ち、言うてから、呼びなさるけん、「何ですか」ちいうたら、あのう、「善導寺の親先生に、私が運転して来た」ち、「言いどんしなさんな」ち。私が、あー、親先生の運転で、自動車に乗ってきたらもう、善導寺の親先生な、またもう、どこんでも「乗せて行け」ち、言わっしゃるけんでもう、あたしの運転でともう、言いどんしなさんなと、言いよるところを頂いた。親先生は、そんな方じゃないですけれども、夢の中では、そういうふうに言われております。「ね」。久富さん。「私の運転で誰にも乗ってきたどみ、言いなさんな」。私が、運転しきるこつどんが分ると、もう、また大坪さん、あそこ乗せてかんの、連れてかんのち、言いなさるのが、どんこんそれがいかんたい。私の運転とはいうちゃいけんよと言うてその、口止めをしているお夢である。皆さん、どうですか。分かったですか。どういう風に判断されましたか。「ね」。豊美を連れておられたということは、まあ、そのう、豊かに美しいと書いてございますから、「ね」、私共の、心がいつも、豊かに美しゅう、いわば、これは伴のうて、いつも連れて行かなければならないと私は、思うのです。「ね」。自分の心が、いつも、より、和賀心、和らぎ賀こぶ心でなからなければならないということである。それは、いつも、いわゆる、金光大神を共にしておるということ。いわゆる、同行二人の信心が、いつも出けていなければならないということ。いつも私は、金光大神と一緒であるということ。「ね」。そこには、私の心の中には、いつも、和らぎ賀こぶ心というものが、与えられれであろうということ。それから先が、問題である。「ね」。それはね、こういうようなことなんです。義理とか、人情とかというものは、この際、かなぐり捨ててということ。義理やら、人情やらというものは、一つこの際、かなぐり捨てて、もう少し、意味があったんですけどね、そこんところがです、「ね」、もう、御造営のことに、家族のものがあげて、御造営のことに焦点を置けということなんです。例えば、この親教会なら、親教会の親先生がです、ああこうと言われる様な事があっても、言われることによって、いわば、御造営が、いわば、商売になるとか、暇取るようなことがあったらです、いけんから、そこは嘘を言うてでもいいから、それは、例え親先生に対してでも、そうあって、行かなければならないということ。本当いうたら、親先生が、仰る事と、神様が仰る事と、同じことというようにして、頂いていかなければならんけれど、こと、御造営の事に当たってはです。「ね」。例えば、私が、親先生をまた、あちらにこちらに、その私の自動車に乗せて歩かんならんようなことをしよっては、こちらのほうに、差し支える。それが、差し支えるようなことがあっては、ならんから、まあ、そこんとこは一つ、内緒にしとかにゃいけんよ、私が運転しきることだけは、言うてはいけんよ、というのである。「ね」。皆さんの、そういうような一つの御神意と、そういうような神様の切なる願いと、御造営に、そういうふうに神様が、そこに、焦点を置いて、一生懸命なっておいでになるということ。今日は、私、夕方から、総代さん方と、それから、こちらの、大工さん、それからあのう、設計士の堀江さんやら、自動車二台に分乗しまして、高良山に参りまして。皆さんも、ご承知のように、高良山杉というのが有名でございます。もう、この辺では、九州きっての銘木の産地なんです。「ね」。もう、ほんとに今日、参りましてから驚きました。それが、もう、じつにそのう、値段も安くて、それからその、ま、いい木で、ところがそのう、それが良いから、ほんなら買おうというても、言うて下さる方があってから、買う事になっても良いんだけれども、もう、いい値段どころで、いわば、そこ、準備をしてあればです、もう出来ないのです。それで、早速問い合わせて頂いたところが、あー、あそこの客殿のほうに、その、大きなそういう、杉材を使うといったような、良い木を使わねばならんとこだけは、まあだその、材木を手につけてなかった。それはもう、こういってさーっと頂けりゃなおさら、有難いことだから、値段も安うて品物も良い。というのだったら、いよいよ、ま、願うたり叶ったり、だというので、ま、見に行ったんです。なんと樹齢五百年。五百年たっとる木なんだそうです。ほんとに、私は、今日、足が少し悪かったんですけれども、もう、(まんごんたっとるから?)神様、御神意を頂いてもろうてから、そしてから、あれば買う。いわれて、そんなりでも買いましてもですね、中にこう、芯があり、芯にその、腐れが入っとるのがあるそうです。だから、そこで一丁先生に、拝んでもらわんならんというわけなんです。だけ、いろいろございましたから、あん中の、そんなら、三本なら三本を買うことにしなさいと言うてから、帰ってきたんですけれどもね。もう、そういうようなことで、本当にこう、タイミングようです、もう、実にタイミングが良いんですね、昨日から、そのことについては。「ね」。いわゆる、その神様がなおさら先頭に立って、お役にたって下さっているんだなといったような、その、実感の中に、清めさせて頂いたんです。「ね」。そういうような神様の働きに私共が、いわゆる、合流するということ。そういう神様の働きに、私共も、「ね」、ご一緒さして頂くということ。しかも、私だけでなくて、家族のもの上げて、そこに、焦点をおかせて頂くということ。「ね」、そういうような、私は、おかげを家族中で、頂けれるようにならせていただく時ですたい、問題は、そこに、「ね」、御造営と言うただけで、私は、家の中の問題が治まりゃせんかとこう思うんですねえ。その、御造営のための修行が、その、御造営のためのいわば辛抱が、「ね」、どのような問題でもです、そこに、焦点がおかれる。しかも家族のものが上げて、そういう気持ちにならせて頂く。「ね」。私は、そういうような、おかげを頂かせてもらうとき、それが、例えばです、場合によっては、義理人情を欠くような場合があっても、こと、御造営のことにとなって、おかげを頂かれるときにです、「ね」、それが、おかげにならん筈は無い、お徳にならん筈は無い、家族のものが上げて、御造営に思いを集中して行こうという、そういうところからです。「ね」。肌肌では、いけません。いかに一家中のものが、上げて信心を致しておりましても、「ね」、そこには、なんとものいえんところの、神様の働きというものがある。「ね」。
息子は右という。親は左という。いやそら、私の信心がほんなこつ、いいや、私に信心がほんなこつ。これでは、如何に信心をしておっても、「家庭に不和の無きがもと」という、信心の元であるそのもとが、第一無くなってしまう。こと、御造営ということになったら、そこで、一決する。話が。まとまる。そして、そこに一丁、そのための修行をさせて頂こうということになる。私は、「信心は家庭に不和のなきがもとなり」というような基をです。こういうような、椛目の一つの、基礎が出来るというか、これからいよいよ、教会としてのおかげを頂かせて頂くための、おー、第一歩とでも言おうか、「ね」、その、第一歩がです、そういう基礎が出来てから、そして次の、第一歩であるときに、私は、いよいよ椛目の、ごひれいがある。椛目のごひれいがあるということは、皆さんの家のごひれいであり、身のごひれいであるということに、なるのじゃないでしょうかね。皆さんが、一生懸命御造営のことに、取り組んでおられます。「ね」。けれども、ちょっとその障害が(   ?
 録音が切れたようで可笑しい    )
上熊本教会から参ってきておられますね、夫婦で。ま、久しゅうお参りになりまっせんが、あの、娘さんがたは参ってくるんですね。ところが、二、三日前です、夫婦で家出されたっきり、おられなくなられた。それで、あなたもう、あそこは、大体もう、ごひれいの立つ教会で、信者も沢山おるんですけれども、信者が、路頭に迷うてしもうとる。それで、その、親教会の先生が、毎日見えよるそうですけれども、その人はもう、信者から総すかんくろうとる先生らしいんです。そりゃもう、○○先生といやあもう、熊本きっての、いわば、やり手の先生なんですけれども、あんまり、やり手であんなさるところが、皆が好かんごたる。「ね」。それでもう、ほんとに泣くにも泣かれんという状態なんです。金光(かねみつ)先生もおかげ頂かれるように、私共も、おかげ頂だけれるようにというお願いであった。どうして来れたんですかちいう。それがそのう、やっぱり、ニ、三日前ある、熱心な信者さんが一人で参ってみえてました。「ね」。そして、その、どうも、まあ、先生の信心見とって、歯がゆいところがあるもんじゃから、もう、先生に少しその、申し上げたらしいんです。もう、その事だけじゃなかったんでしょうけれども、あれやら、これやらが、貯まっていたんでしょうね。その様に家を出られるくらいですから、「ね」、私は、そういうときに、今日の御理解ば、九条頂いてござったのが、おかげ頂きなさったのだと。「ね」。もう、本当に、銭金じゃなか、こげな教会にどん、座わっとるじゃなか、もう、夫婦でどっかもう、それこそ、手鍋下げたっちゃよかけん、外さん出て行ったほうがよかち、いうごたる時にです。「ね」、そういう難儀を感じるときにです。それをいわば一つの、毒薬ということならばです。それを変じて、薬にするような、おかげを頂いたら、徳を受けるだろう、また、人も、信者も、喜ぶだろう、助かりもするだろうと、私は思う。「ね」、皆さんでも、やっぱりいろんなことがある。も、ほんに、ほたくり投げてしまおうごたる時がある。けど、それを私は、神様におすがりさせて頂いてです。「ね」。毒薬を変じて薬にしていけれるだけの信心を頂かせて頂くために、私共の、心の中に、いつも同行二人の信心。「ね」。神様といっつも伴にあるという和賀心。しかも、私だけではなくて、家族中のものが、「ね」、難儀な時でも、片一方が励ます、片一方がいけるときには、片一方が力をつけるというようにしてです。おかげを頂けれるようになったらです、いよいよ、いわゆる信心の基が出来る。そういう基礎、そういう基を基として、信心が、段々成長していかなければならない。私共の、いわば、心の一つの樹齢。「ね」。例えば、今日、私共が見せていただきました、その、もう大きな、切り倒されてる大きな切り株が、あるんですがね。もう、五百年もたってるですから、その、何ちいうですかね、年輪が、あれが、輪がつーっと、ついとるでしょう。ああいうようなふうに、私共の、心の上にです。そういうようなものが、こう、そのう、樹齢を重ねるに従ってです。「ね」。年を重ねるにしたがって、信心の徳というものが、大きくなって行きよるかどうかである。「ね」。行き応せん中に道どんが荒れておるかどうかで、中がぽんぽんになって行きよるなら大変なこと。見かけは、そげんとが、こう、立派なごたるばってん、切ってみたら中はウドじゃったち、言うごたるならどんならん。「ね」。信心にもそういう私は、堅実な進め方をするために、先ず、私の、心の中に、基であるところの、喜びを人に与えられるような、喜久世でありたい。しかもそれが、家族を上げての、それでありたい。おなじいわば、バラバラの信心ではなして、皆が、一つのことにすぐお見上げるところの信心。いうなら、いま、椛目の全体の人達が、家族の方達がです。御造営ということを中心にして、問題が解決するくらいなです。おかげを頂いたときにです。これが、例えば、信心の御造営ということになる。「ね」。信心の御造営がでけた、そういう基がでけた。その基が出けてから、いわば樹齢を、一年づつ重ねていくようなおかげを頂いたらです。「ね」、いよいよ、立派なことになるだろう。いわゆる、子供の代よりも、孫の代というようにです。繁盛の約束がされるというようになるのじゃないかと。それには、やはり、全教的というかね、たとえば、もう、ここの、椛目に、お広前頂いておる会友一同がです、打って一団になって、そういうおかげをいただかにゃならん様なときにです、そいう基、そういう土台を、自分の身の上にも、家庭の上にも頂かせていただきたい。もう、ほんとに、それをですね、例えば、夫婦なら夫婦でも、一生懸命に話し合って御覧なさい。
先日、秋山さんが見えられて、お話になっておられますようにですね。もう、その、学校へ行っておる小さい子供達までが、皆その、御造営のために、御造営のためにと言うて、その、やっておる。「ね」、本当に、そういう風にして、家庭の中がです、「ね」。不和のなきがもとという、その基が、出けていきよるように、もう本当に、最高の私は、機会を頂いているのじゃなかろうかと。「ね」、椛目で、やはり御造営については、様々な、右といやあ、また左というような問題も沢山ございます。だから、そういう例えば、ぽんとこう、もやもやしたものをです。もう、ほんなごつ、俺は、もやもやして、俺はもう、一丁もう、例えていうなら、俺はもう、総代辞めたち。というような話を一度、して御覧なさい。それこそ可笑しな事になります。「ね」。ほんとに、そういう機会をお互い頂いているのでございますから、家族を上げて、御造営に専念させて頂く。それは、ある場合には、義理も人情も知らんと人から言われてもです、「ね」、そこを踏み越えて、本当の信心を頂かしてもらや。いわば、義理人情で顔をつぶしておったり、汚しておったりしておることはです。神様は、ちゃんと後で、顔を立ててくださるようなおかげを下さるだろう。そんな人がありますよ。お供えするのに、借金してからお供えさせていただく。親戚の方達が言いよった。もう金光さんの信心な、あがなこつするきん、俺はもうしようごつなかっじゃんち。いわば、もう、義理も人情もなか、もう、ほんに馬鹿んごといわれとるわけなんです。「ね」。けど、その暁にです。なるほどあれどんが、あんな信心しよったが、ああいうおかげを受けたという時に、その人達も分って下さるときじゃなかろうか。もう、義理も人情も踏み越えてです。このことに進ませて頂きたいと、思わせて頂いておるのでございます。
昨日、おー、久富先生が、現場のほうへおい出られましたら、すぐ、帰って見えてから、怪我人が出た、四人も怪我した。二人は重態だと。今から、すぐ病院のほうに行きますというて言われたから、ちょっと待ちなさい、待ちなさい。あんたが行ったって、どうするか。神様に御願いしましょうと。それから、神様に御願いさせて頂きよりましたら、おかげを頂いてから、段々、二人は、まあ、怪我というほどのことは無かった。二人は、どっか、二人とも鼻の、小鼻のですね、急所の近所をふた針ほど縫わんならんように、大怪我をしておる。現在その二人は入院しておられますが、大変経過もよろしいと言うて、えー、お届けがあっております。「ね」。もう、基礎が、いよいよ最後という時分になってからです。「ね」。まあ、そういうこと、不肖なことがあったということは、これは、私をはじめ、近所一同の上に、一つの警鐘を頂いておる。お気付けを頂いておると。ほんとうに、これは、私をはじめ、しゃんとせないけんなというふうな思いを、新たにさせて頂いているわけでございますけれども、ここに一つ、ほんとに、えー、なんというですかね、有難いお気付けであったということがあるんです。というのはね、毎日毎日、建築委員の方達が三名づつ、出ることになっているわけなんです。ところがですね、昨日に限って、一人も行ってないということです。「ね」。私は、建築委員の方達に、ここを出るときに必ず言うんです。「ね」。あんた方は、例えば、朝から、夕方まで三人のものが行ってから、別に何といって、せんならんことはないのだけれど、あなた方は、一生懸命、御祈念係ばいと、私は、申します。あれだけのことが、あっているんだから、どこで、お粗末があって、ご無礼があって、怪我、過ちがあるやら分らん。信心の無い人達ばっかりなのだから。だから、あなたたちは、あそこへ行ってから、現場を一切見ながら、ハラハラするときは、金光様を一つ、願いすがってくださいと、言うておったがです。その、いわば、建築委員の方達が、一人も、出ていなかったという。「ね」。恐ろしいことですね、それでも。もう、本当に、めぐりをもう、(しきさえらせっかくおどる?)といったような感じがあるということを、感じるんじゃないですか。しかも、その、日頃なさっているというのがですたい。福島さんの息子さん。大きな。福島幾多さんと言うたですねえ。まあ、本当に、奥さんが、無い命を助かって、ま、それから、ま、特異な信心をしておられる。変わった信心をしておられる方なんですけれども、割り当てがあるから、ついつい、その度、今度は行かにゃできん、この次には、今度行かなきゃこの次には行くというて、もう、三遍抜けてある。で、それが、丁度福島さんの行かねばならん日に、当たっておったということです。それでその、息子さんが、正樹さんところの人夫さんで、でておられる。その人が、怪我しておられる。「ね」。罰かぶっとっとじゃない。お気付きを頂いておるということが分るでしょうが。福島さんは、福島さん。「ね」。(    ?    )椛目全体なら、椛目全体の上に、建築委員なら建築委員の人達の上に、なるほどこれは、御祈念係だな、私達はというような自覚を持ってです。このことの御用にあたって頂かねばならないというふうに、いよいよ強く思うた。こんな訳でございました。どうぞよろしゅう、おかげ頂きました。